文字認識
縦書きアタマと横書きアタマ [絵文録ことのは]を読んで思った。
まぁ、わたしは、昔(パソコン通信時代)、「横書きでも縦書きの文章書く人」と評価された実に縦書き人間(ことに散文創作において顕著)なんだけどね。
「文章」を認識する際に、「文字列データ」と捉える人間、と、「文字列によって(一部以上が)構成された総合データ」と捉える人間、がいるんじゃないかと思う。
どういう事かというと、例えば、ここに、同じ作品の、新書サイズで細かめ活字の二段組、ってのと、ハードカバー大きめ活字で字間・行間意図的に開けた版、のふたつがあって、それを読んで内容に感銘を受けた場合を考えて欲しい。
どちらを読んでいたとしても、まったく(あるいは、ほとんど)変わらない印象を受けるのが、「文字列データ」認識型。
かなり異なる印象を受けるのが、「総合データ」認識型。
前者の人間は、大袈裟に言えば読めりゃおっけー。
後者は、読むにしてもどう読むかが重要になる(んじゃなかろうか)
わたしは、多分、強く「文字列データ」認識型。
ある作品を、合間々々に細切れで読んでも、一気呵成に読んでも、(直接比較不能なので断言出来ないけど)恐らく印象はさほど変わらない。
一見、「文字列データ」認識型の方が、文章読めてるっぽいっしょ?
でも、(自分は違うので憶測しか出来ないけど)「総合データ」認識型の人間は、なにかを読んだ際に、「文字列データ」認識型とは違うなにか(それは本人の中にあるのかも知れない(しかし、読書とは、自分の中を他人の文章で読む事だ(少なくとも「読書というもの」の一要素は)))を読み取っているんじゃないかと思う。
また、創作の際には、このふたつの違いを、大分、感じる。
「文字列データ」認識型は、その認識通り、散文を書くと、実に散文的な散文を書く。
大して、「総合データ」認識型は、散文を書く際でも、配置等に対して、「文字列データ」認識型とは相当異なる美学を発揮するように思う。
つまり、「文章としての内容」だけしか認識出来ない「文字列データ」認識型に対して、印刷・表示の際の(単なる印刷的テクニック(行頭になにがどうたら、とか、頁頭にどうたら、とか)ではない)アレンジ能力を発揮する。
言い出してなんだけど、説明し辛いなぁ。
飯作る時に、きっちりと旨いもの(もしくは力不足ならばあまり美味しくないもの)を作る、か、冒険的センスを発揮して思わぬ旨いもの(もしくは力不足でとんでもなく不味いもの)を作る、か…ちょっと違うような。
隣の芝生が青いせいかも知れないけど、「文字列データ」認識型としは、「総合データ」認識型人間が少し羨ましかったり。
ああ、なんか、自分だけしか納得してない、ひとりよがりな記事だ。
まぁ…考えをまとめて記録したかっただけなのよ、きっと(なんだかなぁ)
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コメント
文字列データの人は音声的、
総合データの人は視覚的にとらえてるのかもしれませんね。
私はやはり視覚情報が大きくて、
原稿を書くときも基本的に何字何行という指定がないとひどく書きづらかったりします。
投稿: 松永 | 2004.06.17 00:19
どうもです。
そんな感じなのかも知れませんねぇ。
なにぶん、自分でもさっぱり把握出来てない印象論なんで、アレですが。
わたしに、絵画的素養がないのは事実だと思うので(下手スケッチしか出来ない人)
わたしは…そうですねぇ、バイト指定さえしてくれたら、それに合わせて帳尻合わせ出来ますが、内容は保証しません(笑)
投稿: SUS | 2004.06.17 20:05